これは「#04-04: 絶対的な正義となるもの」に対応したコメンタリーです。
前回の最後からシームレスに繋がって、マリオンたちはマリアの車に乗ります。何故かレオンも乗っていたりします。レオンは家族と過ごす時間よりも、マリオンと一緒にいることを望むわけですね。マリアもそうと分かっていて呼び出したりしています。彼女は何でも知ってますからね。
ちゃっかりノロケるレオンに、マリアは「あらあら」と大人の反応。
で、ここで「未来っぽい車」のシステムが描写されていますが、マリオンにしてみれば極めて「あたりまえ」な眺めなのでサラッと描写されておしまいですね。フロントガラスにばばばーってなって、ドライバーは赤い文字でも出ていなければスルーしてスタートみたいな。マリオンは「異常なし」とか言っちゃうんですが、これは訓練で染み付いた癖の発露ですね。
で、マリアは車を手動で運転します。この事を「マニュアル」、AI頼みの運転を「オートマ」って言ってますが、これは現代の我々の言葉が変異した結果です。言葉とか表現って意味を変えながら使い回されますからね。
マリオンにしてみれば「自動運転」が当たり前で、「人間が操作する=手動運転」なんておっそろしくてしょうがない、というもの。実際にハンドルがついてない車のほうが多いんです、一般的に。ただ、軍の車両は「マニュアル運転できること」が調達要件にあるので、この車にもハンドルがあるわけですね。
マリアさんてば結構なスピードを出すんですが、自動運転が高度に安全化された現在、一般的な制限速度は多分80km/hくらいです。でもそれは自動運転の場合で、手動運転は逆に制限速度が下がってると思います。30km以下くらい。軍の車両はいろんなリミッター外されてるので、このマリアの車のようにぶっちぎれますが。
で、「自動運転のほうがいい」「システムはほとんど完璧」と主張するマリオンに対して、マリアは「そうでもないけどね」という感じで返します。そこからマリアの搦め手が発動。
「じゃぁ、マリーに質問。システムが正しい。自動運転も正しい。人間より遥かに処理能力のあるAIの判断は常に正しい。だとしたら、この社会も正しいことになるわよね。どう思う?」
この問いかけのために、マリアはマリオンたちを車に同乗させてマニュアル運転してみせたと言ってもいいくらいです。それに対し、マリオンは混乱します。
「この社会が、正しい……?」
そんなわけない。こんな戦争にまみれた世界が正しいとかありえない。
「そうね」
カワセ大佐は私の心を読んだかのように相槌を打った。
「戦争が何十年と続いている。これは異常。だけど、正しくないかと言われると、正しいのよ」
「異常だけど正しい?」
「そう」
カワセ大佐は私を見て頷く。
「だって、戦争を続けないと社会が成立しないのだもの、もはや、ね」
「でも」
「異常と正しさは共存するの。あなたが感じているのは異常性。だけど、戦わないとこの国が危ういことも知っている。だから、戦う道を選んだ。違う?」
「私は戦いたいわけじゃありません」
「そうね、そうでしょう。でも、今あなたに十分な訓練と強力な艦を与えたら。きっとディーヴァたちを助けに行きたいと思うでしょう?」
残酷で不都合な真実というべきか。この「正しく」歪んだループを断ち切る術は「ない」のだとマリアは言うわけですね。しかし、
「社会はね、いえ、世界はね、必要としているのよ。歌姫の存在を。その歌を、ね」
「それは、何のためなんですか?」
「正義のためよ」
「正義の?」
「この社会の異常さを矯正するための道具として、歌が必要なのよ。そのために戦争が用意され、そのために歌姫が生み出された」
というように、「歌姫こそがなんとかできるかもしれん」と無責任にも聞こえる発言をします。そして、「戦場で命をかけて歌うことが大事なんだ」とも。さすがにこれにカチンときたレオンさんが前のめりに訊きます。レオンはヒーロー属性なので、こういうことにはとてもガッツがある。
「そのために私たちは戦場へ?」
「イエス」
「不公平ではありませんか」
「イエス、不公平ね」
「死ぬ人も、殺す人も、敵も味方も、あまりにも不幸です、それでは」
「イエス、当事者は皆、即ち不幸よ」
全肯定。マリアは不都合な現実を隠そうとはしません。これはマリアなりの誠意の現れなんですが、マリオンたちにはまだ少し早かったかもしれない。「当事者は皆、即ち不幸」と言いますが、これは歌姫や敵兵の話だけじゃなくて、もっともっと広い意味での「当事者」です。第八章でマリアが激ギレした際に「誰一人として例外なく当事者だ」と発言しますが、そういう意味。そしてその不幸を生み出している存在の一つが自分である、ということもマリアは知っています。彼女もまたとてもつらい任務についていますからね。マリアもまた「当事者」なのです。
マリアは鬱々というわけです。
「イエスとは言うけれど、そうね、レオナ。あなたの言うことはその通り。全くもって正しいわ。ヴェーラだけじゃない、レベッカも、多くの海軍兵士も、アーシュオンの兵士も、改造によって歌姫にされてしまった子たちも。
あなたたちがもがき苦しむ姿を見て、戦場での叫びを聞いて、多くの国民、すなわち消費者は倒錯的興奮に耽溺する。兵士たち、あるいは被害者たちの不幸を骨の髄までしゃぶりつくし、自分たちはただ数字を見て勝った負けたと酒の肴にする。あなたたちの歌を得られる事だけを望み、あなたたちの断末魔すら利用する。
――救いようがないほどの不幸ね」
ここで語ってるのは「自覚なき当事者」たちの「日常」です。
これ、なんかのドラマ(映画?)で見たワンシーンをイメージしています。日清日露戦争で勝利した事をうけて沸き立つ日本国民が、好き勝手に戦場を論じたり、或いは自分たちは安全だと思い込んだり、戦えば必ず勝つんだから言うこと聞かない外国人なんてやっつけちまえばいいとか。誰も彼も当事者じゃないつもりでいるんですね。そこで、ある女の人が「うちの家族(旦那だったか兄弟だったかは忘れた)は大陸で死んだ。戦争をすれば死ぬ人がいる。残される家族がいる」というようなことを言うんですが、言われたおっさんたちは「何いってんだこいつ」みたいな顔をする。新聞社も何もかもが「日本強い、最強、誇りある日本人は常に正しい」みたいな論調じゃないですか、この時代って――というか、この時代に限りませんが。それは多分、この2090年代でも同じだと思うんですよね。ナショナリズムが悪いとは言いませんが、根拠のない安全神話や盲目的な正義の標榜はやっぱり良くないと思う。
で、マリアはそういう「ある意味では情報産業の被害者(それは多くの場合メディアリテラシーを自分の力で育ててこなかった自己責任からくるものだけど)」に対しても同情しているわけです。というか、哀れんでいるというか。うーん、怒っていると言ってもいい。
で、そんな事を言われて、レオンが感情を殺した声で尋ねます。
「そんなのが、社会システムの生み出した正しさなんですか、カワセ大佐。だったら私たちはシステムが作り出した人身御供にすぎないのではないのですか」
この二つの質問に、マリアは無情に答えるわけです。
「イエス。そして、イエス」
こういうところがマリアの怖いところだよな~と思う作者であった。